入れ歯入れれば!?

 NHKで最初に担当したラジオの「NHKジャーナル」は、夜10時からの生放送。当時はニュースの下読みを放送センターの5階で行い、本番直前に13階のスタジオに駆け込むのが常でした。その日も、時間ギリギリに男性アナウンサーと一緒にエレベーターに乗り込みました。私が読むことになっているニュース原稿がまだできていなかったのでイライラしていたら、そのアナウンサーが、突然歯茎を人差し指で触りその指を私に見せて、どこかのコマーシャルのように、
「僕、歯茎から血がでるの。入れ歯にするからアナウンサーを辞めようと思うんだ。」

 間もなく放送が始まるという時にとんでもないことを言い出すものです。「芸能人は歯が命」というコマーシャルがありましたが「アナウンサーも歯が命」。入れ歯だと歯切れが悪くなってしまいます。おどけた口調の後ろに、切なさが見え隠れしました。彼は、言葉通り3月いっぱいで他の部署に移っていきました。

 息子が2,3歳の頃、実家に遊びに行ったら、突然洗面所から激しい泣き声が。行ってみると、自分の歯を両手で押さえながら泣いています。
「どうしたの? 歯が痛いの?」
「わーん、とれないよ〜 タックンの歯がとれない〜!」

 何のことかわからず首をひねっていましたが、次の瞬間合点がいきました。数日前、曾祖母が入れ歯をはずしているのを、目を丸くして見ていたのです。自分の歯もスポッと抜けるものと思い、ひとり懸命に引っ張っていたようです。私は入れ歯のことを話してきかせましたが、息子はその後も暫くの間入れ歯に強い憧れを抱いていました。

 入れ歯は人間専用というわけではありません。日中戦争のさなか、中国で物資輸送のために働いたロバの一文字号は、軍功馬として日本軍から上野動物園に贈られました。子どもたちを背中に乗せて歩き人気者となりましたが、人間でいうと90歳くらいになり、歯が抜けて、まともに食事もできず衰弱していきました。これを見かねた動物園では、一文字号をなんとか救いたいと、歯医者さん達に呼びかけて入れ歯作りに挑戦しました。苦心が実り、ロバの入れ歯が見事完成! セットされるや否や、一文字号は、差し出されたニンジンにガブリとかみつき、猛烈な勢いで食べ始めたそうです。一文字号は、元気を取り戻し、それまで自分を馬鹿にしてきた山羊を追いかけまわしました。そして調子に乗って走り回り、柵に足をひっかけころんでしまい、腸捻転で死んでしまったとか……。一文字号は、入れ歯をしたまま剥製となり、今も上野動物園にその勇姿を留めています。

 入れ歯入れれば人生変わる! できればお世話になりたくないのですが……。

掲載:「月刊公民館」(全国公民館連合館)2006年2月号